4代目 園長 鑁阿寺第45代目住職 山越忍隆 |
長い歴史ある幼稚園の伝統とともに、大きな事故を起こした事がないという 安全性を守っていきたいと思っています。 また2014年度は辺見美津男氏という素晴らしい建築家にご助力頂き、新園舎を建てる運びとなりました。 新園舎の内部はあたかも「木造建築」。鑁阿寺(大日様)の木造りの建築群と呼応しています。 幼児期という大切な時間を、お友達とともに木の温かみの中で過ごし、社会性と自然を愛する心が育ってくれたら…と願っております。 |
1.園児との信頼関係を築き、豊かな活動が展開されるように園児とともに教育及び保育の環境を創造するよう努めます。 2.園児の健やかな成長が図れるよう、その心身の発達を助長するとともに、保護者に対して子育てに関する悩みへの相談に応じ、子育て支援を行います。 3.本園は教育基本法、就学前の子どもに関する教育・保育等に関する法律、及び子ども・子育て支援法、その他の関係法令を遵守して運営するものとします。 |
子ども一人ひとりを一個の主体として大切にし、愛おしい存在としてその生命を守り、情緒の安定を図りながら「一人ひとりが輝く」ことを教育・保育の土台とします。 |
創立記念日 | 1901年(明治34年)6月14日 |
経営主体 | 学校法人鑁阿寺学園 |
運営規程 | 運営規程(PDF) |
所在地 | 〒326-0803 栃木県足利市家富町2188 TEL 0284-21-3475 FAX 0284-21-7738 |
人 数 | 年長(5歳児)51名 年中(4歳児)30名 年少(3歳児)40名 うさぎ組(満3歳)20名 ひよこ組(1・2歳)12名 |
職 員 | 園長1名 副園長1名 主幹教諭2名 指導教諭2名 保育教諭(常勤)14名 保育教諭(非常勤)12名 事務員2名 運転手3名 学童支援員・補助員5名 園医(非常勤)内科 富田幸治先生(昌平町こどもクリニック) 歯科 久保田将隆先生(久保田歯科医院) |
日本最初期の幼稚園 明治34年(1901年)に、鑁阿寺住職 山越忍空(右写真)によって足利幼稚園設立。 約120年以上前といえば、数年後に日露戦争が勃発、ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功――という現在とは全く様相の異なる時代でした。 当時の日本では、明治9年に日本初の国立お茶の水女子大附属幼稚園が設立しましたが、全国的には幼稚園自体の数も少なく、まして私立で仏教寺院での幼児教育というのは当時大変めずらしもので、画期的なものでした。 |
初代 園長 鑁阿寺42代目住職 山越忍空 |
設立のきっかけ 2014年、群馬県にある富岡製糸場が世界遺産に認定されました。明治時代、足利も織物の街として繁栄し、世界を相手に取引をしていました。当然、主婦も仕事をしている事が多く、小さな子供の相手は、遠方から出稼ぎに来ていた住み込みの子守の仕事でした。しかし、その子守は小学校を卒業したばかりのまだ小さな子供だったのです。(当時の小学校は「尋常小学校」といい。義務教育期間は、6〜10歳まで。つまり、10歳程度の子どもが幼児の世話をしていたのです。) 子守たちは鑁阿寺境内に集まり、預かった子供を放って、遊びに夢中でした。しかも言葉遣いも荒く、お行儀もあまり良くなかったのです。 その様子に心を痛めた山越忍空住職が境内に黒板を置き、子守学校を開設。言葉遣い、道徳などを指導したのが鑁阿寺が教育に踏み出したはじまりでした。その後、その東京女子師範学校附属幼稚園に範をとり、東京から先生を招き、明治34年に認可を受けて幼稚園と発展したのです。また教育の場も境内からかつて千手院があった場所に移り、それは現在まで続いています。(千手院は鑁阿寺のお堂のひとつでした) ▲最初期の足利幼稚園の写真(明治40年) 後方の僧侶は山越忍空(※幼稚園を創設したのは若干24歳の時) 後ろの建物は移築されて鑁阿寺の北門になった。 ▲園庭で先生と園児でリズム(明治42年) |
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青い目の人形 日露戦争(1904〜1905年)後に日本が満州の権益をにぎると、中国進出を狙うアメリカとの間で政治的緊張が起こり、両国民の対立が高まりつつありました。 そんななか、1927年(昭和2年)日米の対立を懸念したアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が提唱して親善活動がおこなわれました。その一環として、米国から日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が幼稚園・小学校に贈られました。 残念な事に第二次世界大戦中の反米・反英政策により敵性人形としてその多くが焼却処分されてしまいました。しかし当園では人形を大切に保存し続けました。これからも日米親善と平和を語るものとして大切にしていきたいと思っています。 |
▲足利幼稚園に保存されている 「青い目の人形」 |